第3回「てくてくの会」に思うこと
昨年発足した、珪山会を退院された失語症患者さまを中心とした友の会「てくてくの会」も、第3回を迎えた。今回もまた、感じることの多い会となった。1、2回の成功に気を許し、若手STの育成も兼ねてゆったり構えての準備であったが、当日間際にいただいたご意見から、STとして揺さぶられる会になった。
失語症友の会は、在宅に戻られた失語症の方同士で交流をしていただくことで、外出、友人を増やす機会となり、元気になってもらう場、と考えていたが、退院後も親しくさせていただいている失語症患者さまのNさんの奥様から、「主人は理解障害があり、皆さんの会話に入れない。そのため、ほかの患者さんに興味が持てない。」「楽しくお話をするだけなら、デイサービスと同じ」とのご指摘をいただき、衝撃を受けた。
回復期リハ病院を退院された後、自宅地域でSTを受けることができず、今も奥様が言語リハを行っている。若年の発症だったため、今もお会いするたびに言葉がよくなっているのを目の当たりにする。(本当は、STの継続が必要だ)といつも感じている。奥様は、「てくてくの会」にも、「少しでも夫の言葉がよくなれば」という期待を持ってやってくる。気持ちに寄り添うことが不必要なわけではない。もちろんそうした場になる配慮をした上で、「失語症がよくなりたい」という希望に応えなければならない。その思いに対して前回私はどれだけのことができただろうか。Nさんはじめ40~50代の軽度から中等度の失語症の方のグループを担当し、どれだけ1人1人の方の言語能力に寄り添い、まだまだ改善の見込める時期の方々に、回復のための働きかけができただろうか…、と思い返して、ショックを受けた。
同時に、「これは、失語症友の会だ」とも考えた。お金をもらって提供するSTリハであれば、最大の回復を促すプログラムを立てなければならないが、ボランティアで行う友の会で、複数の患者さまに同時に対しながら、どこまでの質を保障した対応をする責務があるか、忙しい業務の合間に当日準備をしている若手スタッフたちに、どこまでの負荷をかけていいのか、という思いも頭をよぎった。
しかし、しかし…、私たちはSTである。患者さまが望むのであれば、それに応えられるSTサービスを提供しないわけにはいかない。それが私たちの存在意義だ。そして私たちの本質だ。当日私は前回と同じグループを担当し、患者さまは5名、前回同様失語症の程度は軽度~中等度、失語症のタイプはさまざま、理解の良好な方と障害のある方、流暢な方と非流暢な方、復職されている方とまだ復職を果たせない方、リタイアを決めた方、と状況はさまざまである。その方々全員に対して、自分の言語能力を発揮して、納得できる言葉の練習の機会となり、かつ他者との交流を楽しみ、参考になる情報を得ることができる機会を提供する、という絶対的な目標を掲げることになった。
そのあとの詳細は省略するが、久々の緊張と本気のリハであった。1時間あまりの時間1分たりとも気を抜くことなく、5名の患者さま(プラス4組のご家族様)の理解、表出、興味、気持ちにアンテナを立て必要な対応をしながら、1人1人の方の言語能力を最大に引き出す働きかけを追求し(失語の詳細をよく知っている患者さまは2名、初対面の方もいる状況であった…)、一方友の会としての目的を果たすことも目的からはずさずに、互いの交流や共感を心がけながら、グループを進行した。年のせいもあり、終了後は疲労困憊。しかし、参加者の満足してくださった様子と、特にNさんの奥様から、「こういう内容なら、また来たくなる」といっていただいた言葉によって、満ち足りた気持ちになることができた、思い出深い第3回「てくてくの会」となった。
当院も、世の回復期リハ病院同様、スタッフの業務改善に頭を悩ませている。仕事の仕方はバランスを保ち、「とことん」やるのではなく、「ほどほど」にしなくてはならないこともあることを指導している。しかしながら、患者さまの期待に対して、「ほどほど」にはできないことも伝える。専門職としての存在意義をかけた仕事をしなければならないこともある。苦しくても逃げられないこともある。
「矛盾しているんだけど、伝わるかなあ…」と1人ビールを飲む土曜の夜であった。
(トップ写真は、当サイトに写真掲載を許可してくださったNさんご夫妻とAさんと私)
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