セラピストマネジャーコース第1日を終えて
回復期リハビリテーション病棟協会が主催する、セラピストマネジャーコース第7期が始まり、担当委員として参加した。ちなみに私は第3期卒業である。年のせいか、久しぶりに聞いた講義の中で心に残る言葉が多い。
まずは、回復期リハ病棟生みの親ともいわれる石川誠氏の「回復期リハ病棟の歴史」の講義の中。「PTが、自分のリハ以外の時間に歩くことを許可しないのはだめだ」というのは、いつもの彼の持論であるが、今年は特に胸に響いてしまった。若いうちは自分の力に奢り、傲慢になることもある。しかし今になって思うのは、人に求められる最重要の資質は謙虚であること、だ。自分にできないことに向き合うことによってのみ、人は次の一歩が踏み出せる。
「リハビリテーションは自然科学と社会科学の融合である」。これもいつも聞く言葉であるが、心に残った。リハビリテーションは、人の体を扱う医学であり、生活や心を含む。PTは自然科学に近いのかもしれないが、OT、STは社会科学を含むであろう、というコメントもあった。リハは多彩である、と言い逃れることは簡単だが、構成要素1つ1つに責任を持つ覚悟はたやすくない。
「一番大切なものは、意欲」というのも、石川さんの口癖で、全く同じ意見だ。今回もっとも心に残ったのは、新人育成の話の中で出てきた「リハビリテーションは、人と人のぶつかり合いのようなところがある」という言葉だ。新人がすぐにリハをできるわけがない、という理由としておっしゃられた。リハ専門職として患者さまに関わる中で、一歩踏み込んだことを言わなければならない場面がある。その時はこちらの人間力をフルに発揮して対峙する。伝えたいと思う内容を、一番わかってもらえると思う言い方で伝える。吉と出ることもあるが、凶と出ることもある。吉は大きいほどいいが、凶は凶のままにしておくことはできず、上手に修正をかけ折り合いをつけていくのだが、簡単に折れてはいけないこともある。まさに、人と人のぶつかり合いとなる。患者さまとけんかするということではない。ほんとうに相手のことを思い、すべての責任をとる覚悟で人として向き合うことをさす。その上ではじめて何かを伝えることができる。何度もそうした場面を乗り越えてきた石川さんの言葉には、重みがある。私にも、ささやかながらそのような経験がある。リハビリテーションは、人生をかけなければできない仕事なのだ。
遠く離れても、会えば気にかけて話しかけてくださる。元の部下であり、散々お世話になりながら甘えてばかりいる私であるが、今の自分があるのは石川さんのおかげだ、と素直に思えたセラマネ講義であった。
さて、もう1つ。園田会長の講義の中のこと。エビデンスレベルに関する講義の内容は、ていねいで説得力があった。リハビリテーション研究がエビデンスレベルAになることの難しさを示された最後に、認知機能リハ研究について言及された。エビデンスレベルのグレードは、A:行うように強く勧められる、B:行うように勧められる、C1:行うことを考慮しても良いが十分な科学的根拠がない、C2:科学的根拠がないので勧められない、D:行わないように勧められる。リハ研究にAは少なく、良くてB、認知研究はBも少なく、良くてC1、というのが現状である。
高次脳機能障害に関する研究の難しさは、痛感している。CBAを作るときに、共同執筆者の牧迫飛雄馬氏から、「行動評価を標準化することは難しい、あえて論文化に必要なものを言えば、症例数とこの評価がどうしても必要だというパッション」と訓示を受けた。500例近いデータ数を得て論文にすることができたが、とても難しい領域である。
園田会長曰く、高次脳機能障害研究は層別化ができていない。データ数が足りない。個別事例の話にとどまっている限り、研究のレベルがあがらない。確かに、症状が多様であり層別化しにくいので難しいが、「病識をつける」「楽しくやると効果がある」というあたりで、効果を示せないか…、というお話であった。非常にインパクトを受けた。私は、高次脳機能障害研究においてデータ数集めに走ると、ろくな研究にならないと考えてきた。たくさんの方に同じことをやって効果を出そうとすると、荒くなる。個人個人に合わせた細やかなプログラムを立てることで、効果が上がる。まずは、事例に徹底的に向き合うことが、高次脳機能障害研究の基礎である、と考えてきた。そこに変化はないが、リハビリテーション研究発展を願う園田会長の言葉は、耳に残った。個別的な関りの中を貫くコンセプトを抜き出し、その意義を証明し、記述しなければならないのではないか、という気持ちにさせられた。
CBAを使う若い研究者たちが、その夢を果たしてくれることに思いを馳せた。